ただひたすらに水を与え続け、良き未来を祈り続ける心を育てるという事

ここ最近は変わり映えのない日々を過ごしています。
障害をもつといわれる人達のお世話をして、時に問題が発生しその対応に追われています。問題が発生すると、当然手間もかかるし、勘弁してくれよという気持ちも生まれてくる。しかし、その問題はどこか自分を試されている気がして、「さあどうする?」と見えない何かに問いかけられているように感じるのです。

人の相談に乗り、お話しをして、お食事の用意をする。
そんな変哲もない日々。時にヨガのレッスンをする。新しいものに挑戦した方がいいのではないか、もっと自分を高めた方がいいのではないかなんて衝動にかられることもあります。

すると、もう一つの心が声をかけてきます。
新しいことをするのが成長なのか?と。

一つを深める

現実に目を向けると、自分に呼応して状況が動いたりします。疲れている時には何も起こらず、ゆっくりと休み、エネルギーが回復した時にはここぞとばかり問題が勃発したりするのです。ひとつの物事に誠心誠意向き合いなさいと戒められているように。

新しい生活に踏み出そうとしている人。不安にかられながら、もっと良くなりたいと足掻いている姿を見て、どんな言葉をかけてあげればいいのか。どのタイミングで手を差し伸べてあげればいいのか。

どれが正解かはわからない。けれど自分の中で答えを出し選択し、行動を実践する。これは常に迷いがつきまとう。弱さや脆さを感じさせるから、動きを見守ることは不安を残し、手を差し伸べたくもなります。けれど手を差し伸べると一時的には助かるが、長期的な視野で見ると自分でなんとかする力を奪ってしまうこともある。

また弱さに流れてしまう人もいる。ついつい人に合わせてしまい、良い顔をして、後々辛くなってしまって約束を反故にしてしまう。人は楽な方へ流されてしまいがち。それが習慣づけられてしまうと、勇気を出して断るべき場面でも人に合わせてしまいます。

人を否定することはとても大変だ。自分が間違っているのではないかという怖さもひしひしと感じる。相手のことを思って怒る人は減っている気がするけど、曖昧にごまかすと間違いを気づかせることができない。それは優しさではなく、甘さを混同してしまっている。

そんな折、弱さの中に試練に立ち向かおうとする意志を感じることもあります。人によっては、笑われてしまうような些細なことも。
けれど、本能で恐怖を感じてしまったり、トラウマを喚起させる息苦しさを呼び起こしたり、苦しみの根源は人それぞれにあります。それを乗り越えようとする小さな強さを見つけるたびに、人生で大事なものはこれではないかと感じてしまうのです。

魂があるとするなら・・・

人それぞれが持っている苦しみを解消し、苦しみから解放され、新しい心のステージに到達することが人生に与えられた枷だと思うのです。

彼らを見ていると、神様は必要な試練をお与えになると感じることがあります。ひたすらに頑張れば、問題が解消されると勘違いしている子。自らの不都合から逃れようとする子、嫌われることを恐れ周りに合わせようとして耐えきれなくなる子。

そのままではいけないよと気づかせるために事が発端し、様々な出来事や人を配置し、間違った在り方を気づかせるようとしてくれます。その試練を乗り越えるために。

問題は逃れようとすればするほど、大きな問題となって返ってきます。それに気づいてくれることを願い、言葉を投げかけ、態度を示す。人をコントロールしないように自分自身を戒めながら。
変哲もない日々を過ごしながら、いつか良くなることを信じ、種を蒔き続ける。

なにをやるか、は大事ではないと思うのです。
どのような意識で行うのかが問われるのだと思います。

人とおしゃべりをすること。ご飯を食べている時。仕事をしている時。掃除や洗濯をする時。眠りにつく時。現在だけを見ると愚痴や文句を言いたくなるが、ちょっとした部分に優しさや強さを感じ、そんな光に希望を見出していく。

これは自分の心を浄化する旅でしょうか。
周りにいる人の良き未来を願い、ただひたすらに水を与え続けるような瞬間を続けていく。
雑念にとらわれず、祈るような心を目指して。

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