失敗してもいいと思えるのは、失敗を乗り越える動機があるからと気づいた。

2016年3月20日

失敗してもいいよという話し」という記事を書きました。でもインターネットで失敗に関する意見を調べていると、失敗するのはイヤだという考えがたくさんあって、確かにそうだよなと思います。

ただ僕のなかではあえて失敗してでも動いていきたいという動機があって、それは「楽しいことが起きないかな」という受け身の姿勢で生きるのはイヤだという考えがありました。

楽しいことを与えられて、楽しいと感じるような自分ではいたくない

例えば週5日働いて、土日が休みのときに遊んだり休んだりするというサイクルがあります。その時って土日になにか楽しいことが起きたらいいなという気持ちを自然と持っていたんです。友達とご飯を食べに行ったり、彼女とデートをしたり、映画を見に行ったり、イベントがあったりと様々ありますよね。

逆になにもない日はつまらないなと感じていました。その時は予定があって楽しいことをやっていると人生が充実していて、なにも予定がないと人生がつまらないという先入観を持っていたと思うんです。しかし、それも違うのでは?といずれ違和感を抱きます。

楽しいことを与えられて、楽しいと感じるような自分ではいたくないという根本的な生き方から違和感を感じたのです。それは周りの人から幸せを分けてもらうような感覚。そうではなく常に幸せと思えるような生き方をしたいと考えて、自分が楽しいことを創る生き方をしようと変わりたくなったのです。

自分ひとりでも幸せだし、パートナーといるともっと幸せ

恋愛に例えると、彼女ができたら幸せになれると考えたりしますよね。いま自分が幸せだと思えないのは彼女がいないからで、彼女ができると幸せになれるんだという考え方です。僕はそのメンタリティを持ったままだと幸せになれないと思っています。

彼女がいないと幸せになれないというのは、「彼女に幸せを与えてもらう」という意識が透けて見えます。つまり依存しているわけです。彼女ができたとしても、彼女がいなくなると不幸せになってしまうと考えたら、自分自身を強く保つのは難しいかもしれません。だから自分ひとりでも幸せだし、ただ彼女といるともっと幸せだという考え方がいいと思っています。そのためにはひとりでいても満たされているという生き方が求められます。

喜びも苦しみも味わい尽くすような人生の方が満たされる

自分が楽しいことを創る生き方とは、楽しいことを受け取ることに比べて大変難しくなります。ヨガではレッスンを受けるだけの状態とレッスンをする側の状態では、意識することがまったく異なってきますよね。その過程では失敗したり、うまくいかないということも受け入れなくてはいけません。ただそれができたときの達成感や面白さは受け取るときに比べて、非常に高く感じるようになります。

もちろん僕自身も失敗したくないので、失敗しないように準備をしたり、シミュレーションをしたりして対策を打っています。そこまでやってダメだった場合には、その苦い気持ちを受け止めるしかないのです。いまの自分には足りないことだったわけですから。次の機会では失敗しないように糧とするしかありません。

失敗するのが怖いというのは、その苦い気持ちを受け止めたくないからだと思います。それは誰しも同じように感じているものではないでしょうか。ただ僕には自分が楽しいことを創れないことに比べたら、失敗することは一時のものでしかありません。

「望みすぎると、待っているのは試練と失望だよ」という言葉がありましたが、僕は多くのことを望んでいるのかもしれません。ですが、なにか物足りないと感じないような人生よりは、喜びも苦しみも味わい尽くすような人生の方が満たされると思うのです。失敗してでも得ることを望んでいる動機を探してみてはいかがでしょうか?